わが妻、卑弥呼とくだもの祭り

まだまだ寒い日も多いが、日一日と、確実に気温が上がってきたように思える。真冬の間は、分厚い熊の毛皮を着ていた人々も、軽量でお洒落な鹿の毛皮に着替え始めた。お調子者は、特製の、角が着いたままの毛皮を着て肩で風を切って闊歩している。春はもうそこまで来ている。


しかし卑弥呼の、
「あと一ヶ月もすると、くだもの祭りだねぇ」
という一言で、たちまち周囲は、真冬を思わせる凍てついた空気に包まれてしまった。


「くだもの祭り」とは、かつては皆が楽しみにする祭りだった。腐りかけの蜜柑の中に石を仕込んで殺傷力を高めたものを、文句を言いながら川に向かって投げる。蜜柑が当たって浮かび上がってきた間抜けな魚を捕獲し、それを焼いて食べたあと、デザートとして苺を皆で頬張るという祭りで、この祭りのために川面めがけて石を投げ、命中率を高めたりしていたものだった。しかし、「おいしいだけではつまらない」と思った卑弥呼が、
「では、わたしを果物にたとえて、意外だけどうれしい果物を挙げた者に、春の果物を与えよう」
と言って、その歳から木の板に絵と果物の名前を彫って、それを競い合うという祭りになった。


しかし誰もが、卑弥呼を畏れ、当たり障りのない果物の名を言った。皆が一様にぶどうに喩えた。あまりにも退屈な予定調和に激怒した卑弥呼は、ぶどうに喩えた者の首をはね、木の枝に刺して、「ぶどうになりたかった人たち」という看板をつけて家の玄関に飾ることにした。


次の年から、人々は、恐怖に追い立てられるように喩えの創意工夫合戦を行った。あえて果物という領域を超えて、ウサギなどの動物に喩える者もいれば、架空の果物に喩える者もいた。中でも最も卑弥呼を満足させたのは、去年挙げられた「ミミン」という架空の果物で、バラの香りとミカンの手軽さを備えており、猫の耳のような形状のものがついているというものだった。柑橘系の果物に喩えることで若さを、バラに喩えることで優美さを、猫に喩えることで気まぐれな小悪魔らしさを。今年はこれを上回る架空の果物を思いつかなければ、どんな無理難題を押しつけてくるかわからない。


暖かくなってきたら、卑弥呼をどんな果物に喩えようか。国民の一人一人が、狩りや農作業の合間に唸りながら知恵を振り絞る。これから一ヶ月、気温の上昇とは裏腹に、陰鬱な日々が続きそうだ。